私の父の従弟で花谷暉一(てるいち)という人物がいました。花谷暉一は花谷兼治郎(私の祖父の弟)の六男として生を受け、一時期、同じ敷地で花谷兼治郎の親子8人と一緒に暮らしていたそうです。
花谷暉一は幼い時から常に学業がトップクラスでスポーツも万能な人物でした。彼は京都大学理学部に入学し卒業後、理学部物理学教室の荒勝文策研究室で大学院生として研究を行い、将来を嘱望されていました。
戦争中、父親は京都の下鴨神社に奉職していましたので、時々彼と会っていたそうです。当時、軍部の命令で彼が何を研究しているのかは極秘でした。しかしその時に暉一が父親に「おにぎり一個ぐらいの爆弾で京都市全部が消滅するようになる」と言っていたそうです。戦後になって父親は、暉一は原子核の研究、特に核分裂を研究していたのではないか、と言っていました。
昭和20年8月6日、広島に世界初の原子爆弾が投下されました。8月10日には軍部の命令で荒勝教授の研究生の一人として花谷暉一は広島に向かいました。その時に採取した土壌を持ち帰り、原子爆弾に必要な物質が含まれており、広島に原子爆弾が投下されたことが証明されました。
その後、再び9月の初旬、暉一は広島の原爆救援調査団の一員として参加するのですが、17日の枕崎台風の豪雨により宿舎を襲った土石流の犠牲となってしまいました。
花谷兼治郎の長男、花谷正明は弟暉一の死を悼み、京都大学に花谷会館という建物を寄贈しました。長らく構内で生協本部として使われていました。しかし令和3年9月に老朽化のため解体されました。解体する際、京都大学では一応遺族の承認が必要なので、花谷家の本家の私に許可をもらい、今は石碑だけが残っているそうです。
生前、父はよく、暉一が生きていれば、きっと立派な物理学者になってノーベル化学賞受賞したかもしれなないと残念がっていた。

コメント