55年目の野分祭

時代の流れは速いもので「楯の会事件」から55年も経ちます。55年前の昭和45年11月25日、自衛隊市ケ谷駐屯地で三島由紀夫先生と森田必勝さんが自決されました。当時先生は45歳、森田さんは25歳でした。私は20歳でした。

55年の年月は過ぎ去りましたが、あの時の衝撃は忘れることはありません。森田さんに進められて昭和46年の春ごろに楯の会に入るための自衛隊の訓練を受ける予定でした。自決のショックから十数年間は何をして生活していたのかは、記憶に有りません。衝撃の記憶から逃げるような思いで皇学館大学を卒業し神社に勤めながら鍼灸師・柔道整復師の国家資格を取得し、研修生として中国に行ったりしていました。

ところが平成5年(1993)2月、思いもかけず横浜市の鶴見神社の金子宮司から電話がありました。内容は三島・森田の両烈士の23年目の野分祭を奈良県桜井市の大和神社の会館で執行したいので、思い出したくない気持ちは理解するが、斎主に花谷君、副斎主には洛風会(維新政党新風)代表の魚谷君に頼みたいということでした。皇大の先輩で楯の会の会員であられた堀田先輩も引き受けるように説得されました。そのことから引き受けて平成5年11月25日の23年祭、野分祭に向けて準備することになりました。

しかし野分祭の祝詞を作成する段になると森田さんの記憶が蘇り、涙が流れてしまい一時的に祝詞が作成できなくなりました。森田さんの声や姿が浮かんでくるのでした。

同時に「この23年間、何をしていたのか、森田さんを犬死にさせてはならない」という思いが出てきたときに、不思議に祝詞が作成できました。完全に森田さんが背後から乗り移られたのです。それ以後、「三島森田事務所」の皆さんと連絡を取りながらと両烈士の決起檄文の解説や志を説いてきました。

ところで「大義に生きて大義に死す」・「俺の恋人誰かと思う 神の造りた日本国」は森田さんの好きな言葉でした。森田さんの辞世の句は

今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは

当初、自決されるのは先生だけでした。しかし森田さんはこれを承知されなかったのです。「今日にかけて」とは以前から「大義に生きて大義に死す」は森田さんの信条です。大義に生きる真摯な姿が辞世の句を支えています。野分とは台風のことです。私の志を知ってくれるのは嵐の風だけだろうか、後に続く草莽の志士がいるだろうかと。

古来より我が国では、大義を持って兵を挙げることを義挙といいます。失敗すれば暴挙と言われます。森田さんは義挙か暴挙か後世が決めること、後に続く志士たちに期待している辞世の句です。

ところで今年も令和7年11月24日、正午に四日市にある森田さんの墓前で慰霊祭「野分祭55年祭」を斎主として神事を執行させて頂きました。11月25日の正午、横浜市鶴見区の鶴見神社の「清明宮」で「野分祭」が執り行われました。「清明宮」は三島由紀夫先生と森田必勝さんの両烈士を祀っています。

横浜の鶴見神社と大阪の鶴見神社で野分祭を執行するのも不思議な御神縁です。亡くなられた横浜の鶴見神社の金子宮司は先生と飲み友達でした。大阪の鶴見神社の宮司は森田さんを兄貴のように接していました。森田さんが好きな映画に高倉健の「昭和残侠伝」がありました。いかに「男のケジメ」の取り方が大切かを主題にしています。森田さんは「昭和残侠伝」シリーズの主題歌として高倉健が歌った「唐獅子是丹」が好きでした。私も75歳の後期高齢者になってしまいました。そろそろ森田さんや先生への「男のケジメ」をつけないと思っています。

           

 

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